ヘッドラインニュース

対話不足の現代社会(月刊原宿新聞5月号社説)

 20年ほど前のワシントンDCでのこと。私たちは、ボリビアから移住した医師の家族のクリスマスパーティーに招かれた。彼の家族、親戚含め10数人ほどの自宅での集まり。彼はボリビアで医者だったが、当時のハイパーインフレを避け、家族、親戚ごと米国に移住。英語の勉強をしながら米国の医師試験に挑戦していた。移り住んで2,3年経っていたが、言葉のカベは高く苦戦していた。逆に小学校の子どもたちの喋りはネイティブになりつつあった。
 パーティーに集まった親戚の人たちは、子どもたちを除きほとんど英語がしゃべれない。日本人が、わかるのにしゃべらないというのではなく、単語そのものをしらないというレベルだ。
 その晩の彼らとのコミュニケーションは、ほとんどがジェスチャー。ただ、私たちが疲れて座っていると、回りの人たちが両手で「どうぞどうぞ」というように飲み物をすすめてくれた。「もう一杯いかが」と言葉でいわれるよりは、その厚意はこころに沁みた。
 ロジャー・石井。日系二世の彼は両親とも日本人だったが、どういういきさつがあったのか深くは聞いてはいないが、日本語を両親からまったく教えてもらっていなかった。彼はキリスト教関係の仕事をしていた。「自分でいうのもおかしいが、私は小さいころ勉強ができたこともあって鼻もちならないほど傲慢だった。ただ、ある夜、寝ていたら強い光を感じおもわずベッドにひれ伏し泣いていた」。彼はそれからキリスト教の仕事を始めたそうだ。私にはそういう体験も感性もなかったが、ロジャーの言葉を疑うほど疑い深くもなかった。彼とは1年近く付き合ったが、入会をすすめられることはなかった。DCを離れる前の日、いっしょに食事をしていたところ「明日は空港まで送らせてくれないか」とロジャー。フライトが午前4時ぐらいだったので、「朝早いのでタクシーでいくよ」と答えたところ、「ヤスヒロが嫌じゃなければ、送らせてくれないか」とのこと。社交辞令ではなく、その気持ちは強く伝わったし、非常に嬉かつた。
 9.11後に日本に帰ってきておよそ7年がたった。当然、日本語の環境で生きているのだが、果たして言葉あるいはこころが本当につうじているのか、はなはだ疑問だ。言葉は手段。こころを通わすための方便にしかすぎない。ただ、重要なものだ。海外ではほとんどみないものの、日本での自動販売機の設置数は世界でも圧倒的。言葉をひとことも発しないで、ものを買えるのは便利なことだが、コミュニケーションの欠如の一因になっているのは確かだ。
 携帯、パソコンでのEメール。大変便利になったが、対話は1行か2行かの紋きりがたの表現ですむようにもなったのも事実。夫婦、親子の対話不足。昭和の時代もそんなに会話は多くはなかったと思うが、どういう状況でもお互いを信頼しあう家族の強い絆があったような感じがしてならない。最近の近親者による陰惨な事件をみても事の本質がどこにあるのか、まったく理解できない。
 こころの琴線にふれるようなコミュニケーション。それはお互いを理解しあおうという姿勢から始まるのだろうが、真摯に対話、あるいは物事の本質に逃げないで向き合おうとしなければ、本来の理解はえられないのかもしれない。記者になりたてのころ、警察幹部との懇親会であまり親しくなかった他社の記者とお互いの想いを話しこみ意気投合、警察幹部の前でお互い号泣したことが思いだされた。浪花節かもしれないが、こころの琴線にお互いがふれあったのは確かなことだ。
(2008-05-17)

最新記事一覧

ヘッドラインニュース一覧

創刊にあたり

現実をみつめる冷静な目
原宿新聞編集長 佐藤靖博

www.harajukushinbun.jp

虫に書く

事案の真相に鋭いメスを
「巨悪は眠らせない」

www.harajukushinbun.jp