特集/コラム
「2坪からの出発」 CA4LA 吉澤利男社長
「街に文化がないといけない」。吉澤さんが出店するときの哲学だ。
大学卒業後、証券会社の営業などを経て1,989年、アメ横に友人とともに2坪の店をオープン、ネクタイや雑貨などを販売していた。
きっかけは、その2年前に放送が開始されたNHKのBS放送。米国のメジャーリーグやバスケの試合を生で流していた。何気なくみていたNYヤンキースの試合で選手がかぶっていたCAPをみて、売れると直感、仕入先を求めてロスに飛んだ。当時、帽子といえば、巨人軍のキャップぐらい。米国文化に憧れを抱いていた時代、ヤンキースのNYのロゴは魅力的であった。
ロスを飛び回り仕入先を開拓、2坪の店に並べたところ、若者たちが殺到、口コミが口コミを呼び大行列となった。3800円のキャップで一日売上げが200万円。単純に割ると、来客は500人以上。舶来品のメッカというイメージが強かったアメ横という立地条件も大きく貢献した。
爆発的に売れたのを聞き込み全国から「卸してほしい」と注文が殺到、1993年には日本橋に現金卸センターを開設した。取引先は全国から300社を超えた。売上げも急増、2坪の店から4年後には年商8億を超えていた。
1997年、原宿にアンテナショップ「CA4LA」
をオープン、その店名は商品仕入れの原点であったカルファルニア、ロスアンジェルスの頭文字を使用した。原宿店オープンの背景には、アメ横の売上げの低下があった。全国でショッピングセンターなど建設されるなか、アメ横の存在意義が変わりつつある時期でもあった。
原宿は当時、歩行者天国もあり、若者たちでごったがえしていた。「人の集まるところに出店する」。初のアンテナショップは神宮前交差点のそば。2階建ての38坪だった。この出店にあたり、吉澤さんは商品構成を大きく変えた。従来の輸入ものからほぼすべてをオリジナルに変更、デザイナー8人を採用した。この店も当たった。多くの芸能人ご用達のショップとなり、待ち合わせは「CA4LA」の前でと言われたほどだ。いわば日本初の帽子専門店の「原型」が形づくられた瞬間でもあった。
その後パルコやラフォーレなどにインショップ形式で出店。百貨店などへの委託販売ではなく、全て自社販売。当然スタッフは全て自社の人財。「帽子はファッション。流行に敏感な人たちでなければ、売るのは難しい」。出店にあたっては東京以外であれば、少なくとも政令指定都市規模がボトムライン。帽子は必需品ではないことから、人が集まり、遊び心がある地域でないと売れないという考えだ。現在全国に24店舗。アルバイトを入れると人員は約230人。売上げ約38億。
商品のデザインは13人の専属デザイナーが担当、勤務態勢などは比較的緩やかだが、数字には厳しい。すべて能力給の年俸制。自分のデザインした帽子が売れなければ、即座に収入にはね返ってくる。熾烈な競争原理のなか、売れる帽子のデザインにしのぎを削っている。同社の中枢ともいえるメンバーだ。強みはこのデザイナー軍団とともに、販売を担当している人たち。感度が高い人たち採用、アルバイトも社会保険などをつけるなど厚遇、将来は全員を社員にしたいそうだ。今後は浅草、秋葉原、銀座、名古屋の駅ビルなどの出店を計画、外国人の来街が多い地域などを狙っていく考えだ。
一女の父。現在は横浜の山下公園そばのマンションに奥さんと2人暮らし。趣味は、街をぶらつきながら、気軽な店で飲むこと。新宿3丁目、ゴールデン街などでいっぱいやるのが好きなのだそうだ。座右の銘は「色即是空」。その心は、幸せという概念を含めすべては自分の心が決めるということ。全く飾らないフランクな人柄。(有)ウィーブトシ社長。68歳。